こちこちと、時計が針を揺らす音、かちかちと、時折食器がぶつかる音。MADO研究所は今日も、柔らかな午後に満ち足りている。
レンスはティーセットを洗うウィンの隣に立って、洗い終えた食器のしずくを拭いながら、キッチンに残る幸せなかおりをそっと吸い込む。カウンター越しに見渡せるリビングでは、ユールが何をするでもなくソファに沈み、そこへまとわりついたアサナギとユウナギが、そばに座るディオへとちょっかいをかけている。ルサ・イルは、何か取りに行くものがあると言って自室へと消えていた。
誰もが無言であった。その中でふとディオが声を上げる。
「風が強いな」
窓は空かしているだけであるため、レンスたちに風の具合は分からない。ユールが膝の上のユウナギを下ろしてアサナギの手をするりと抜け、窓の前へ立つ。ぶわ、と背中まである黒髪が風に膨らんだ。ディオがその横から手を出して、窓を開けて外へ顔を出す。彼女の短い銀髪もばさばさと煽られ、レンスのもとにも湿った風のにおいが届いた。
「ウィン、雨が来る」
そう言ったのはユールだった。ウィンはそれを聞いて
「えっ! それは大変です、洗濯物を取り込まないと。レンスさん、すみませんが洗い物の続きをお任せします!」
「は、はい」
泡を流してエプロンで手を拭き拭き、スリッパをぱたぱたと鳴らして部屋を飛び出していく。顔を引っ込めて窓を閉めたディオが、レンスの方を振り返って言った。
「これは帰れないかもしれないぞ」
レンスが食器をすべてかごへ伏せた頃には、外はすっかり暗くなっていた。雨はまだないが、勢いを増した風が造りの甘い窓をガタガタと揺らしている。
洗濯物を抱えたウィンと、小さな辞書くらいの箱を手にしたルサ・イルがリビングに戻ってきた。ウィンは洗濯物の山を下ろして
「何とか間に合いました。ユールさん、レンスさん、ありがとうございます」
と安堵の息をつく。ルサ・イルはソファの前へ座り込んで箱の開け口を探し始める。
「台風みたいなのが来たね。これは一晩かかるかなあ」
「あの、わたしたち今のうちに」
「帰る? でもちょっと無理かも」
箱の一番小さな面が開いた。瞬間、パッと外が異常なまでに明るくなり、
「っきゃあ!」
轟音。地響きまで感じさせるような雷鳴がとどろいた。ごろごろごろ……と雷はいくつか距離を置いて連続する。それを呼び声にしたように、雨がけたたましく窓を打ち始め、外は真っ暗な雲に閉ざされる。研究所を取り巻くような雷鳴と稲光に、背筋がぞっと冷えた。レンスは思わず、並んで座るディオの手を握る。
「怖いのか」
「うん、ちょっと。城下はあんまり天気が荒れないから」
ユールが壁のタイルに触れて、魔法陣の明かりを灯した。少しだけ恐怖がやわらいだ。ごめんねありがと、とディオの手を離す。
「これは一晩は続きそうですね。どうしましょう」
雷雨の激しさに動じているのはレンスだけらしい。タオルを畳みながら言うウィンは、まるで夕飯のメニューを迷うかのように時計を見上げている。ルサ・イルなんて、箱の中身をざらざらとあけて顔も上げない。
「雨はともかく、そのうち雷はおとなしくなるだろ。そしたら僕が送ってくよ。雷までは無理だけど、陣で雨風はどうにかなるしさ」
「簡単に言いますけど、移動陣は森の中ですよ。木が倒れていないとも限りませんし、そもそも陣自体が無事かどうか」
「うわっ。この雨の中で修復? さすがにそれは……」
室内さえも雲行きが怪しくなりはじめた。その雲を払ったのは、迷いも濁りもない平坦な声。
「泊まっていけばいい」
「えっ?」
ユールの言葉に、レンスは思わず頓狂な声を上げた。
MADO研究所へ通ってもうどれほどになろうか。声さえかければ勝手に入れるほどの仲にはなれたが、泊まったことは一度もない。せいぜいが夕飯のご相伴に預かって、夜道を家まで送ってもらったくらいだ。掃除はしたことがあるが、その風呂を借りたことはなかった。
そもそも友達の家にも泊まったことのないレンスにとって、お泊まり自体が初体験である。さっきまで雷鳴に怯えていたのが嘘のように、期待にじんわりと体温が増すようだった。
しかし、まだ決まったわけではない。経験的にユールの提案が無碍にされることはないだろうが、ルサ・イルはそれほど乗り気でない様子だ。変わらず澄まし顔のユールを振り返って
「そうは言ってもユール、こんな男所帯に女の子二人――」
「あなた今、私を男に数えましたね」
「あっ、そうだ! ごめんごめん。いや、だとしても服とか男物と子供服しかないよ? 部屋も客間なんて気の利いたものないし」
ルサ・イルの困惑を、ウィンはてきぱきと手元の衣類を整えて積みつつ一蹴する。
「それは心配に及びません。ドーのたんすを一つ、丸ごと保管してあります」
「きもっ」
「失敬な。体に残してあるあなたには言われたくありません!」
「これはどうやったって取り出せないんだよ! っ、じゃなくて、ええと、レンスとディオは? 泊まってくって話でいいの?」
いきなり話を振られてレンスは慌てた。とっくに泊まる気満々でした! とは天地がひっくり返っても言えない。
「わっ、わたしはいいです、むしろありがたいです!」
「こちらもそれがもっとも安全だと思う。天災は何が起きるか分からないからな」
理由は違えど答えは同じであった。ルサ・イルだけが「そっかあ」と不服げだ。素直すぎる態度はレンスの不安を膨らませる。
それを察してくれたのか、ウィンがレンスには到底できない叱るような口調で言う。
「アルサ、あなたは何をそうぶすくれてるのですか」
「だって二人が泊まるとなったら、親御さんに連絡しなきゃでしょ? この時間だったらお母さんの方が出るじゃんか。僕、あの年頃の女の人得意じゃないんだよねえ」
「なんですかそのバカな理由は」
ウィンほどではないが、レンスもつい似たような感想を抱いてしまった。途方もない人生経験を重ねてきているはずのルサ・イルは、ときどきレンスでも呆れるほど子供っぽい。だが惚れた弱みというのだろうか、そういうところを呆れた人だと切り捨てることはできないものだ。
「じゃあお母さんにはわたしから連絡します。ルサ・イルさんとお話したいって言うようなら声かけますから」
そうやって手を差し伸べてしまうレンスは、ディオの横目にはまだ気づかない。
ひとり通信鏡へと向かうレンスを目で追いながら、ディオは隣に座る人物に低く問うた。
「どうしてあんなことを言った」
「あんなこととは」
「泊まればいい、という話だ」
刺々しいディオに対して、相手は淡々と答える。
「それがもっとも安全だと考えたからだ」
「正論だな」
ディオ自身の発言をなぞったような言葉に、そんなはずはないのに嫌味を感じてしまう。そんな自分が何より腹立たしかった。隣人は音量だけディオに合わせて、上っ面の気遣いも余計なお節介も口にしない。そうか、とのみ返った相槌に、ディオはかぶりを振って
「……八つ当たりだ。悪かった」
そう言い残してソファを立つ。その足で、母に外泊を告げるレンスの隣へと向かった。