=コップ=

「あっ」
 短い悲鳴、そして
 がちゃん
 台所の床にコップが落ちて、砕ける。ディオは慌てて濡れた手を拭き、ガラスの破片を拾おうとしゃがみこんで
「ユール、危ないか――」
 ら、まで言えずに視線を上げるのをやめてしまう。小さな口が呆然と丸く開いて、
「っ、ユール!? 大丈夫か!!」

 珍しいディオの大声を聞いて、レンス、ルサ・イル、ウィンの三人はリビングで顔を見合わせた。
「だ、誰か! 大変だ!」
 焦りもあらわな声にレンスの背がさっと冷える。ルサ・イルがアサナギとユウナギにちらりと目をやって立ち上がり、レンスもそれに続いた。
「ディオ、ユール、どうした?」
「どうしたの? 大丈夫?」
 台所のカウンター裏には、いつもの無表情でユールが立っていた。ディオの声は見えない彼の足もとから。
「あっ! う、動いたら……!」
 ディオの制止を無視して、ユールがカウンターから出てくる。
 きっと彼としては、レンスたちに現状を分かりやすく伝えようとしたのだろう。果たして、彼の姿を見たレンスは
「ど、どうしたんですか!?」
 そしてルサ・イルは
「……あちゃー」
 それぞれ、それなりに驚き、それなりに呆れる。かなりだらしなくくたびれたTシャツと短パン姿のユールは。足に怪我をしていた。それもまあまあ大きな。
 レンスが血を見てビビッている間に、ルサ・イルが素早くしゃがみこみ、傷の様子を見る。
「うわ、けっこういってる。ユールって怪我しやすいよな。刺さってるのなんて初めて見た」
 ルサ・イルの言葉にさらに血の気を失いつつ、レンスはカウンター裏を覗き込んだ。床に散らばったガラスは、淡い青色からしてディオが洗っていたコップだと分かる。ディオが落してしまって、そばで手伝っていたユールが怪我をしたのだろう。
 見ればディオは、普段でさえ生白い顔を真っ青にして皿の上に割れたコップを集めていた。床の血が点々と奥の棚に続いていることから、この皿もユールが出してきたものだと思われる。
「ディオ、大丈夫?」
「こちらは大丈夫だ……ユールには悪いことをした……ウィンにも、新しいコップだと言っていたのに……」
 ディオの方がユールより重傷かもしれない。
「落ち込むのも分かるわよ。でもあんまり暗い顔してちゃダメ!」
 ディオはユールが好きだと思い込んでいるレンスは、ぴ、とディオの鼻先に人差し指を突きつける。ディオは顔を上げて、かなり力を入れて表情を多少穏やかなものに塗り替える。
「こうか?」
「そうよ」
 二人でうなずき合って、レンスはほっと一安心。ユールの怪我の方は、ルサ・イルやウィンに任せておけば、心配するほどのことはない。しかし、ディオの顔はまた強張っていた。
 振り向くと、ディオの視線の先にはもちろんユールがいて、青い瞳が二人を、というかディオを見下ろしていた。手には自分の血をつけたガラス片を持っていて、生気のない立ち姿と相まってちょっとおどろおどろしい。
「っ、ご」
 ディオが噎せそうな声を出した。
「ご、ごめんなさい」
 一音一音をはっきり、自分で飲み込むように言う。ユールはそれに、レンスの頭越しに答えた。
「分かった」
 それだけ。レンスは思わず拍子抜けするが、ディオはそこから何か読み取ったようで、すっと視線を落とすと落ち着いた所作でガラスを拾い始める。
 どうなるのかな、この二人、と無用な心配に思いをはせながら、レンスもそれを手伝う。

 こんなことのために来た世界ではない。
 こんなことのために作られた自分ではない。
 使われるための魔力体が、失敗をしてはいけない。
 失敗の結果に気持ちが揺らぐのは、もっといけない。
 平然としていなければ。道具として、機能として、役目を果たすために。
 ……だったら最初から、こんな精神なんて入れなければよかったのに。
 だけど、それは早計だ。
 この精神を否定したってどうにもならない。
 それに気付いたのは、きっと、彼を見ていたから。


2012/5/19
ディオとユール、普通に仲良いね。ディオはユールの、普通の人間のはずなのに普通じゃない感情とか精神の状態をけっこう間近に見て、自分のことをきちんと考え直すきっかけにしてるみたいな。
ディオは知らないけどユールはそういう自分の立ち位置を理解して行動してる、かも。