夏の足音も近い、六月初めの午後のこと。レンスとディオが訪ねて行ったMADO研究所にルサ・イルの姿はなく、リビングではウィンがそわそわと本のページを捲ったり戻したりしていた。
「ルサ・イルさん、いないんですか?」
順風堂書店からここまで、レンスたちが運んできたのは魔法陣用の紙束だった。ルサ・イルが自ら店頭へ赴き、日時まで指定して注文していったのだから、研究所にいるに違いないと思っていたのに。
レンスはちょっと拍子抜けして、テーブルの上に注文の品を下ろす。なんだかいつもより落ち着いた気分だった。もうほとんど日常に組み込まれたこの場所も、どうしてかルサ・イルがいると当たり前の空間にならない。城下で見かけて衆目を引くのは絶対ウィンの方なのに、レンスにとって非日常を感じるのはルサ・イルの方だった。
「それがいないんです」
ウィンの声は分かりやすく不機嫌だった。ルサ・イルは普段から子供っぽいが、ウィンはルサ・イルのことになると子供っぽくなる。けれどその矛先はルサ・イル以外に向かないため、それを知るレンスは
(ルサ・イルさん、戻ってきたら怒られるだろうなあ)
と思いながらウィンの向かいに腰を下ろした。ディオが隣に座って
「品物を届けるだけだから、本人がいなくても問題は――」
「それがあるんです」
ウィンの不機嫌面はいつの間にか苦笑に替わっていて、彼は引きつるように曲げた唇の端で言う。
「実はアルサが財布を持って出てまして……それがうちの全財産なんです」
「えーっと、それって」
紙束のてっぺんにつけた注文票とウィンを交互に見て、レンスは言葉に迷う。ディオが言った。
「待機する」
早朝出て行ったというルサ・イルが帰ってきたのは、それから二時間も過ぎてからだった。夕飯の下ごしらえを手伝って「もう待つのもばからしいので、私たちだけでお茶にしましょう」とウィンが台所に向かった時、玄関から
「ただーいま」
と呑気な声がしてダイニングのドアが開いた。キッチンからウィンが
「遅い!」
と一喝し、振り向いて唖然とする。並んでテーブルに着くレンスとディオは、ルサ・イルの荷物を見て目を丸くした。
「何ですか? それ」
「バケツアイス!」
子供のような笑顔で掲げた木桶を、ウィンの手がかっさらう。
「あなたは! あんな早くから出掛けてどこでどうしてるかと思えば! こんなもの突然買ってきて! うちに冷凍設備はないんですよ!?」
ひとしきり説教をかましてから、ふうっと息をつきとどめの一言、
「あなた、最近本当に行動パターンがジジイですよね」
しかしルサ・イルも負けてはいない。
「何を今さら。ウィンって都合良く僕を年下扱いしたり年寄り呼ばわりしたり、そういうの勝手じゃない? それに冷凍庫なんて、ないなら書けばいいでしょ」
実のない舌戦が始まろうかと思えたところへ、ディオが――そのつもりはないだろうが――仲裁の言葉をかけた。
「アイス、溶けるぞ」
ウィンとルサ・イルは同時に木桶を見やって、交わす声もなく皿とスプーンの用意を始めた。
「さすがディオ」
「こちらは事実を指摘しただけだ。溶けたら価値が落ちるのだろう」
「そうだけど、もしかしてディオ、アイス食べたことって」
「ない」
「じゃあ食べてみたかったのね」
「……レンスが言うならそうなんだろう」
表情は変わらなかったが照れているようだ。思わず笑ってしまって、ディオにそっぽを向かれる。そこへ
「はい、お待ちどう」
かたんと二つ、お皿が置かれた。マーブルカラーのガラスにこんもり、おたまで掬ったらしいアイスが山をなしている。
「これ、ちょっと、っていうかかなり多くないですか?」
スプーンを渡されて困惑するレンスに、正面へ座ったルサ・イルが
「そう? 女の子は甘いもの一杯食べられるんじゃないの?」
「アルサ、年取ってデリカシーまで失くしたんですか」
言い合う二人の皿を見て、レンスは絶句した。ウィンの皿にはレンスと同じくらい、それでも多すぎるくらいなのに、ルサ・イルはその倍ほどのアイスをもっと深い皿に盛っていた。普段が少食なだけに、これには驚く。
ルサ・イルはレンスの沈黙の意味を読み取ってか、いたずらっぽく笑って
「甘いのならいくらでも入るんだよね、僕」
「そのうち糖尿病ですよ」
「今さら? それに今日はこれから書くからいいの」
スプーンをくるくる回して言い訳していたルサ・イルが、ふと視線を一点に留めた。その先をレンスとウィンも追って
「…………」
ディオは三人に見詰められながら、アイスを掬ったスプーンを口に含む。
「……おいしい」
「それは良かった」
ルサ・イルがそう返して、自分の分に取り掛かる。
「久しぶりだなあ。夏だなあ」
そんな声を聞きながら、レンスも一口アイスを掬って
(甘くて冷たい……これってまるで、ルサ・イルさんの声だ)
初めて、そう思ったのがこの六月。