結果から言うと、レンスの地図は不要だった。森の中にはあちらこちらに目印があり、それを探して行けば良かったのだ。
(いくら近くの移動陣が一つだけでも、こんなに道が分かりやすいんじゃ森にこもってる意味がないじゃない)
レンスなどはそう思うのだが、天才の考えることは分からないものだ。大人しく案内通りに歩いていると、不意に前を行くディオが足を止めた。
「着いた」
その先で、森が開けていた。木立がいきなり途切れ、足元は青々と露を吸った草に変わり、見上げれば晴天の空が広がっている。そんな空間は、奥行、横幅、それぞれ20メートルほど。レンスたちが立つ側とその左右はそのまま森に囲まれ、正面だけが不思議な様相を呈していた。
岩壁が、色とりどりの植物に覆われているのだ。高さはレンスの身長の三倍はあるが、完全に切り立っている訳ではなく、中ほどから奥へ倒れているように見える。植物は主に、下の真っ直ぐな部分にへばりついていた。花の色も葉の形も様々で、レンスには半分も名前が分からない。
そしてそのすき間にいくつか、岩壁を切り抜いた小窓が設けられ、中央には小さなドアがあった。
庭、と呼んでいいのか分からない草原を横切り、レンスとディオは埋もれそうなドアに近寄る。地面から三段、岩を掘ったかたちで階段があり、扉は少し奥まっている。幅は普通だが、高さはディオなら屈まず通れる程度だ。
ドアには、看板が二つ下がっていた。
「ルサ・イル写本代筆事務所……と、MADO研究所?」
レンスはディオと顔を見合わせる。どうしよう、と、言いかけた時にディオが動いた。
こん、こん、こん、とノックを三つ。
「ごめんください」
「ちょ、ディオ!」
まだ心の準備が! なんて、言う暇もなかった。
ドアの向こうから慌ただしい足音と話し声が迫り
(――話し声?)
ルサ・イルは、引きこもりの変人で、友達も家族もいない隠居老人ではなかったか。この扉の向こうにいるのは、本当にルサ・イルなのだろうか。
レンスが思わず身構えたその時、玄関のドアが勢いよく開いた。ディオがレンスの隣まで下がる。
「いらっしゃいませ、こちらMADO研究所です」
ドアを開けた勢いが嘘のように穏やかに笑って見せたのは、白い人間だった。
白ずくめ、という訳ではなく、ズボンは薄いグレーでスリッパは紺だったが、髪の白がどうしても目を引く。その上、瞳の色も青みがかっているとはいえかなり淡い。年は二十歳程に見えるが、それにしては落ち着きが感じられた。やけに中性的な顔立ちと体格だが、女性には見えないので男性だろう。
(この人が、ルサ・イル? 若い……っていうか、若すぎない?)
見た目が異質なのは多少予測していたが、ルサ・イルはものすごい年寄りのはずだ。魔力を表す瞳の色がこれだけ特殊だから、そのせいなのだろうか。
疑問の渦の中、第一声を発することもできないレンスをその渦から引きずり出したのは、白い青年を押しのけて現れたもう一人の青年の声だった。
「ウィン! 君のお客さんじゃないだろう」
ウィンという名らしい白い青年とは異なり、髪は普通に黒く、瞳はくっきりと水色だ。線の細い顔立ちで、ウィンと同じくらいの年頃だろうが、僅かにつくりが幼い。男性としては少し高く、どこか甘い声がそれを助長していた。しかし、レンスたちを見る目は明らかに年長者のそれである。
(誰だろう)
そう思うもとても言葉にはできないレンスに対して、ディオは行動的だった。二人とそれぞれ目を合わせて視線を引きつけ、率直に言う。
「こちらはルサ・イルに職務上の用向きがあって来た。あなた方のどちらか一方がルサ・イルなのか?」
それを聞いて、白い青年が残念そうな顔をした。反対に水色の瞳の青年が笑顔で手を挙げる。
「はいはい、僕がルサ・イルだよ。仕事の依頼かな」
「あ、はい、そうです」
やっとレンスは声を出すことができた。しかし、その内心は恐慌状態に近い。
(ルサ・イル!? この人が? 若すぎない? ううん、絶対若すぎ! だっておじいさんが子供の頃にはもう有名だったって……!)
受け入れがたい現実に絶句するレンスに、白い青年が優しく声をかけた。
「それでしたら、立ち話もなんですし、中でお茶でも上がりませんか?」
「そうしよう」
ディオが勝手に答えてレンスの手を引く。頼もしいが少し怖い。
こうしてレンスは、あれほど恐れていたルサ・イルの住処へと足を踏み入れることとなったのだった。