ガラスのなくなった窓から日差しが入り込み、床をきらきらと照らす。レンスは細かなガラスの破片を見やってため息をついた。
「協力、するのはいいけど、これどうしよう」
「直さなければいけないな」
ディオがカバンから小さな冊子を取り出し、後ろの方からページを一枚破り取る。魔法陣だ。
「それで直るの?」
「ああ、かなり高価な陣だからな。使えるか?」
差し出された陣に、レンスは思わず声を荒らげそうだった。だが、相手はレンスの性別すら知らなかった天界人だ。自分とそう年も変わらないだろうに遠く魔界までやって来た少女を怒鳴りつけるのは、素直に躊躇われる。
「……わたし、魔法使えないの。ていうか、魔力が使えないの」
嫌々ながらに告白したレンスに、ディオは驚いた素振りを見せなかった。ただ、そうかと一言呟き、悩むように僅か、眉を寄せる。
「実を言うと、こちらは仕組み上他者の魔力を借りないと魔法が使えない。レンスは、魔力はあるんだな?」
こくんと頷くと、ディオはまた無表情に戻り、
「では借りよう」
すっと腰を屈めて、座ったままのレンスに力移しをした。
数年ぶりに、レンスの魔力に波風が立つ。減っていく感覚こそないが、動きを感じること自体、本当に久しぶりだ。力移しなんて、妙に珍しい魔法を使われたことにろくに反応もできないくらい。
一方のディオはあっさりとレンスから離れ、陣を窓のあった位置で使う。三角形を主軸とした線がぱっと閃き、割れたガラスを残らず寄せ集めた。そこへディオがもう一枚破った陣を重ねて使い、大小様々なガラスが一枚の窓ガラスに復活する。
あまりにも無茶苦茶な魔法だった。あの陣高そうだなとか、そんなこと考えている場合ではない。
「な、なんなの!? 今の!」
「天界の技術の粋だ。戦争に次いで重要な公共政策にのみ用いられる。これでも魔界の最高峰には到底及ばないが」
「魔界の、最高峰……」
すなわちルサ・イル。本当の万術師。稀代の陣書き。彼を称える言葉は数限りないが、実際にその力を目にした者は少ない。レンスとディオは、これからそんな人物に会いに行くのだ。
改めて考えると、ぞっとするようなプレッシャーである。ディオの存在が今更ありがたい。
そのディオが陣の束をカバンに仕舞い込んで、へたり込んだレンスの手を取って立たせた。
「ああそうだ。出発はすぐで良いか? その前に、ここの家主に滞在の許可を求めたいが」
レンスはそれを聞いて少し頭をひねった。ディオの服装は様々な人がいる城下の中でも僅かに異質だ。しかもレンスの家を狙って、窓から訪問している。すべてを正直に話してしまうと、逆にこじれる恐れがある。
「……最初はお父さんとお母さんに見つからないよう、こっそり出かけましょう。それで帰ってきた時にわたしがディオを紹介するわ。行き道に出会って、わたしのおつかいの手伝いをしてくれたって。そこでディオの事情を話すの。どう?」
レンスの提案に、ディオはこくんと一つ頷いた。
そうして、二人はそれぞれに紙の束を抱えて順風堂書店を抜け出した。
城壁のすぐ内に設置された移動陣まで歩き、移動陣番の力を借りることなく移動する。城門に詰めている騎士団員に声をかけて陣を作動させてもらうのはいつも苦痛だったため、それが不要となっただけでレンスの心は軽かった。
しかし移動先の景色は、その心をずんと重くさせるものだった。
鬱蒼とした森。それが視界の全方位を占めていた。
「……森だな」
「そう、ね」
日差しを遮る幾重もの木の葉。梢から吹き下ろしてくる風は冷たく、足元の苔のためかひんやりと湿っぽい。地面のあちこちを木の根が行き交い、その表面を苔が覆い、さらに上から落ち葉がかぶさっている。どちらを向いても、同じ風景。
「これ、どっちに行けばいいのよ……?」
手元の地図を見ても、最初の一歩をどうするべきかは分からない。焦るレンスに、ディオが声をかけた。
「レンス、これを見ろ」
白く小さい手が、二人の足元を指差す。そこには、魔法陣らしき帯状の曲線に囲まれた、下草を刈って作った矢印があった。
「もしかして、これで道案内のつもり?」
「だろうな。行くか」
呆れかえるレンスを尻目に、ディオが歩き出す。
「待って、地図がないと」
レンスもそう言って白い帽子を追いかけた。