=Lens=

 レンスは自分が好きではなかった。赤茶っぽい瞳も、すぐ跳ねる茶髪も、体力がないのも、友達がいないのも、中の上だった成績も、男と間違われる名前も、全部好きになれない。
 だけどそれらはまだ、嫌いではない。なんとなく好きじゃない、けど仕方ないと諦めている。
 嫌いで嫌いで仕方ないものは、他にあった。
「レンス、明日の準備はできた?」
 部屋の外から母が言う。はあいと答えて、レンスはため息をついた。その目は机の上に束ねられた紙の山を見上げている。
 両親の言い分は分かるのだ。秘塔を卒業して一年、家にこもって目的もなく本を読むのもやめなければならない。レンスもずっとそう思っていた。実家である順風堂書店を手伝って、会計や注文や在庫管理をしようと勉強していた。
(なのになんでこんな……)
 細く開けた窓から風が吹き込み、紙束の一番上を半分だけ浮かせる。バラバラに飛び散ってしまえと思ったけれど、そんなことは怒らない。
 レンスが任されたのは、その紙束をある人物に届けること。
 紙束に書かれているのは、秘塔で教材として使われる魔法陣、そしてある人物とは、“何でも書ける”陣書き、万術師ルサ・イルだった。
(嫌だなあ)
 レンスは何より魔法陣を嫌っている。同じくらい陣書きも嫌いだ。
 この世界が、普通の生活が、魔法陣なしに成り立たないことは知っている。しかしだからこそ、その恩恵を受けられないレンスは陣と陣書きを嫌う。
 レンスは魔力が使えない。だから魔法が使えない。そして、使えない魔法を使うための道具である魔法陣も、使うことができない。
 魔法と魔法陣を全ての根本とする世界で、レンスはいつもないがしろにされた気分だった。
 そんな世界の代表者みたいな人のところへ行くなんて、仕事とはいえ嫌でたまらない。しかもルサ・イルは森深くに引きこもって気が向くままに仕事を選ぶ隠居老人だという。レンスなんかが訪ねて行けば何を言われるか分かったものじゃない。
 その不安を表すように、窓ががたがたと揺れた。一際強い風が、紙束を半分ほど散らす。やった、という気持ちとあーあ、という思いが交錯し、次の瞬間――
 がしゃん
 甲高く濁る音、ガラスの割れる音。振り返ると、道の土の臭いが鼻をついた。
 逆光とも言い切れない光の中に、きらきらとガラス片を舞わせて、少女が一人立っている。
 黒い服に黒いブーツ。白い帽子に白い上着、白いベルト、白いズボン、白い肩掛け鞄に、あれはマントだろうか。耳元も、白い何かで覆われている。身長はおそらくレンスより低いが、その立ち姿には少女らしからぬ貫禄があった。
 ゆっくり、持ち上がった手が銀色の髪とマントをばさりと払う。ガラスのかけらが床に落ちる。紫色の瞳が重そうなまつげを揺らしてその動きを追い、そして、レンスを見た。
 それだけでレンスは、竦んだように動けない。少女は視線を動かさないまま右手で鞄を開け、小さな黒い箱を取り出すと口元に当てる。
 聞こえた声は確かに少女のものだったが、口調は驚くほどに事務的だった。
「こちら観測者、現地到着。これより協力者“Lens”の捜索を行う」
(れんす、って言った)
 言葉になった思いはそれだけだった。全身が凍ったように強張り、心臓だけがやけにうるさい。少女が一歩を踏み出し、ガラスがやかましく音を立てる。
「もしもし、あなたは“Lens”を知っているか」
 レンスはほとんど反射で頷き、自分を指差して言った。
「わっ、わたし! わたしです、レンスって」
「あなたか?」
「そう、よ」
 少女が初めて表情らしい表情を見せる。それはおそらく、怪訝の色だった。そうして再び、黒い箱に言う。
「こちら観測者、“Lens”を名乗る少女と接触。しかし“Lens”は男だと聞いている。応答を」
 ……何だか、レンスにとって面白くない話が始まろうとしているようだった。
「――こちら観測者。そうか、こちらでもレンスは男の名だと聞くが。――ああ、ではあなたの不手際なのだな。彼女がレンスであるのは間違いないと判断する。――これより“Lens”への協力要請を試みる」
 断片的な会話だけで、レンスには何が起きているのか分かった。名前で性別を間違われたのだ。秘塔在学中、男子生徒にからかわれたことを思い出す。
 そんなことを知る由もない少女は、また冷たい無表情に戻って、黒い箱を鞄に仕舞い、真っ直ぐレンスに向き直った。
「こちらは天界の五界観測調査庁、異界部魔界課所属の観測者だ。名はディオという。天界から魔界の観測のために来た。レンス、あなたにその協力者となってほしい」
 少女――ディオは、レンスが聞きたかったことのすべてに答えを寄越した。
 天界から来たと聞いて、レンスは少し身を固くする。魔界において、天界の評判はあまりよくない。理由はよく分からないが、昔からのことらしい。
 レンスの不安を感じ取ったのか、ディオが説明を加える。
「魔界の観測とは、この世界でこの身体に相応の日常生活を送ることだ。そして可能であれはルサ・イルと接触したい。あなたとあなたの家族に負担をかけることにはなるが、これ以上のことは絶対に要求しないし、観測期間が満了したら負担分を金銭等に換算して返却する。必要であれば書面による契約も――」
 途中からレンスは聞いていなかった。相応の日常生活、ルサ・イルと接触。それはつまり、年頃の女の子と一緒に過ごすということで、ルサ・イルのところへ一人で行かなくていいということだ。
 そう思って、レンスは答えていた。
「いいわ。わたし、協力する」


2012/10/14
事の発端。