=リセット=

 ウィンがゆっくりと顔を上げた。長い夜を泣き明かした頬に朝日が差す。窓は白く光り、空気は張り裂けんばかりに透明で、外の温度を何も遮らない。
 アクアはずるずると、引きずられるように身を起こした。床に置いてきた体温が恋しい。朝はあまりに寒かった。
「ウィン」
 静かに上下するまぶたの下、くっきりと付いた涙の跡を服の袖で拭う。今度は赤く擦った跡が付いた。
 それが消えるくらいの時間を黙って、ウィンが色のない唇を開く。
「アクアさん、私の話を聞いてくれますか」
「――うん」
「精霊として世界を守り続けてきたアクアさんにこんなことを言うのは、とても躊躇われます。ですが」
 決意の揺らぎを示すように、前置く声は震えた。万術師は、少し笑って首を横に振る。
「いいんだ、ウィン。おれは、今はただのルサ・イルだから」
 精霊だった少年は、当時のままの姿で、声で、微笑みで、世界のすべてを、知る。

「この世界は、未界によって作られたものです。あなたの知る世界が形成されて以降、世界は未界の介入なしに回っています。しかし、未界はいつでも世界のすべてを好きなようにできるのです。あなた方が命がけで守った魔界を、未界は望んだだけで滅ぼすことができるのです。同様に、あなた方の力を使わず魔界の存続を保障することも、できます。
 そして、この世界を未界の意思にかかわらず消滅させられる存在――それが私です。
 かつては未界もそんな存在でした。今の世界の前の世界があった頃、ドーが今で言う未界の立場にあったのです。
 ドーが世界を作った時、今の未界も生まれました。未界はある時、生まれながらに持つリセット権を行使して、ドーの作った世界を消滅させ、今の世界と私を作りました。ドーは本来消えるはずでしたが、未界は彼女を存続させました。
 私とドーはその時に出会ったのです。生まれた時から、私はドーが好きでした。ドーは以前持っていた世界としての力をほとんど失っていました。その上、この世界にとっては異質な存在であったため、自ら魔力を作り出すことができませんでした。ドーの魔力は未界が供給していたのです。出来上がった世界には極力手を加えない未界の、唯一継続的な干渉でした。
 私は逆に、この世界と同時に、同じものから、何よりもこの世界に適合して生まれました。
 この世界の本質は魔力です。魔力の本質は変化への抵抗です。私の姿は生まれた時から何一つ変わっていません。髪も爪も伸びません。傷も瞬時に治ります。魔力を消耗してもすぐに回復します。
 あなたが今までその姿で生き長らえているのも同じ理由です。精霊として強い魔力を持って生まれたこともありますが、それには限界があります。その例はご存知でしょう。けれどあなたは、魔界の変化への抵抗を司るフィル・ネイチャーから力移しを受けました。それも、右目一つに匹敵する力に触れています。ドーの根幹にも接触しましたね。あの影響も大きいです。傷の回復や体力の維持のため、意図的に体内魔力を利用し続けてきたことも影響しています。
 しかし、極めつけはあの魔法陣でしょう。世界の異変を元に戻した魔法陣、それを書き、使ったこと。あなたは究極の変化への抵抗を経験しているのです。
 アサナギとユウナギ、彼らは体も存在も魔力でできています。本来は、私がリセットを望んだ時に生まれ、世界の消滅と生成に使用される魔力でした。彼らが生まれたのは世界の異変が起きた時です。私はあの時、リセットを望んだのです。
 世界の異変が起きたことで、ドーは未界からの魔力の供給を受けることができなくなってしまいました。それは天界と冥界のつながりのように世界内部の者によって修復することはできない、決定的なダメージでした。私もドーも、未界と意思の疎通を取ることはできません。未界の介入による関係修復は絶望的でした。ドーの命は有限となったのです。そして私は、ドーが死んだらこの世界を終わらせようと決めました。当時の私にはドーが世界のすべてでした。彼女のいない世界には何の意味も感じませんでした。
 それでもドーの命を諦めた訳ではありません。彼女を僅かでも生き長らえさせるため、私はネットワーク『MADO』を作り、他者の魔力を奪いました。本当は私の魔力をあげたかったのです。けれど不変すぎる私の魔力は、自ら消費することはできても、他者に分け与えることはできませんでした。
 そうして私は、あなた方と出会いました。ドーの真意を知りました。あなた方が、世界中の多くの人が、この世界の無慈悲な仕組みの中で精一杯生きていることを知りました。ドーがそんな世界を愛していることを知りました。
 決意はすぐには変わりませんでした。けれど――ドーを失った今、私はリセットを望んでいません。
 いつかきっと、私は世界を終わらせるでしょう。ですが今は、ドーのいない世界で、アルサ、あなたと生きたいのです」

 長い長い世界の告白を受けて、ルサ・イルはたった一言、
「うん」
 と答えた。ウィンが深く息をつくのを待って、その意味を語る。
「ウィンが世界を終わらせるまで、僕も君のそばで生きたい。いつかウィンがリセットを望む時は、僕が誰にも邪魔させない」
 ともすれば精霊としての行いを丸ごと覆しかねない言葉に、ウィンは目を見開いて不安げな声を上げた。
「いいんですか? ルビィさんに申し訳が立ちませんよ」
 アルサは笑ってその名前を聞いた。
「いいんだ。ルビィならきっと、ウィン以外の誰かが世界を壊さないように頑張るって言うよ」

 4XXX年、早春。万術師と次なる世界が終わりを目指して歩き始めた朝。
 彼らにとって忘れがたい『あの日』から、ちょうど1000年の時が経っていた。


2012/12/21
1000年後編はアルサとウィンの二人暮らしが本編中の大事な何かから1000年後に始まったから1000年後なのです。